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作陶について
亀岡の付近は、当時丹波国南部に属しており、篠窯跡群[しのようせきぐん]と呼ばれる一大窯跡群があります。篠窯[しのよう]は、平安京への焼き物の供給地として栄え、生産された須恵器や緑釉陶器は全国各地へも供給されていました。平安朝の時代には日本を代表する焼き物の産地であったようです。当地が焼き物の一大生産地となるには、良質な陶土や燃料とする薪の入手、消費地との地理的条件など、いくつかの条件が揃っていたことが考えられています。亀岡を含むこの地は断層角盆地で、保津川峡を成す山々は数万年の地殻変動によって平野が隆起したものと考えられています。保津川以外出口を持たない地形は、太古は大きな湖であったといわれ、このような地形的な条件が、良質な陶土を得るための素地になったことが想像されます。
良質な陶土の確保、登り窯を焚くことが可能な環境にあって、吉井史郎氏は、採取してきた土を、水簸[すいひ]し製土して、これを、単味で用いたり、外の産地の土と合わせて用いたりと、いろいろと工夫して作陶されています。鍛錬された轆轤捌きからは、力強く勢いのある器、温かくふくよかな器など、土味や釉薬と相まってさまざまな表情の器が生まれています。“自然に”を旨とした作陶からは、主張しすぎない、むだのない形が生まれ、シンプルであることで、盛りつけた料理をよく引き立たせる器に仕上がります。
手がけている焼き物
登り窯を焚ける環境にあって、唐津・安南・伊羅保・粉引・刷毛目などの李朝の時代から受け継がれた焼き物や、釉薬を研究して生まれた玄釉など、さまざまな種類の焼き物が焼かれています。
用途を限る必要のない焼き物ですが、ぐい呑み、徳利などの酒器、飯碗、湯飲み、皿・鉢類、片口などの食器や土鍋。さらに花器や茶器など、たくさんの器があります。